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石川県金沢市 浅野町校下ホームページ

浅野川にかかる中島大橋

石川県金沢市浅野町の校下概略(平成11年発行 浅野町公民館50周年記念誌より抜粋)

  浅野町の位置を大雑把にいえば、金沢駅から東にのびる東大通りと、北陸道からのびる東インター大通り周辺の地域です。
 その名残である浅野川の右岸中ほど、小橋から七ツ屋大橋に至る小橋町、昌永町、京町の住宅密集地と、浅野本町からJR北陸本線を跨いで高柳町、田中町に至る田園地帯までの広範囲にわたっています。

 昭和三十年(一九五五)頃には市道金沢停車場・春日町線(東大通)が開通。昭和三十七年頃には乙丸町を中心とした旧国鉄車両基地が開設。昭和四十七年頃には東山・内灘線の森山・田中間が開通。さらに昭和六十三年(一九八八)には内灘から能登へ通じる清湖大橋の開通など市の政策の動脈が次々と完成するに至り、今では金沢の中心部に入ってきた感がある。

 つまり北陸本線、東大通、国道八号線などが校下の真ん中を突き抜けて町会や校下は分断されているが、住民の町会意識は昔と変わりなく、校下としての結束力も強い。

小橋用水

 天保年間、浅野川小橋詰より取水して水車、浅野本、乙丸、高柳、田中を通り松寺町先の大宮川に到る灌漑用水路が完成した。この用水は小橋用水土地改良区によって運営され水路地区の農業用灌漑用水として利用され、四月から八月の灌漑期以外は水路の維持と防火用として利用されている。

中島用水

 天保年間、中島町より取水されたとあるが詳しくは不明。現在は浅野川小橋詰可動堰より取水し中島町を通り沖、磯部、松寺、大浦、東蚊爪の灌漑用に利用されている。小橋用水・中島用水とも昭和三十年代に暗渠となった。

浅野角場

 浅野村にあった大組足軽の鉄砲の射的場。場所は藩政時代の金沢城下図を見ると浅野神社の左後方にあったらしい。「越登賀三州志因概欄」によると鉄砲の射的場たる角場は増泉と浅野にあり、前者は元禄二年、浅野は同三年(一六九〇)に普請が成ったという。これは異風裁許半田惣兵衛・奥村湍兵衛の請願によって作られたものであると見える。
 異風とは鉄砲の修練を専らとするもので、異風裁許は二人役で大組頭・御持方頭・御先手頭からこれを兼ねた。半田惣兵衛は御先手頭で知行六百石。

浅野焼

 茶の湯で用いる茶碗は楽焼が多いが、楽焼で有名なものに金沢で製作されている大樋焼がある。大樋焼の祖、初代大樋長左衛門の門下に五平という人がおり、浅野村で窯を開いた。その作を浅野焼といい、名品なり。

浅野町小学校

 明治七年、浅野村の浅井名右ヱ門が自費三百余金を投じて、自家の地内に浅野村落小学校を創立したのが始めと云われる。
 明治十一年、藩主前田斉奉公の命名により「勉致小学校」と名づけられ、同十八年に初等、中等、高等の小学校に指定され中等の通学区域は浅野村・浅野新・大衆免・乙丸・高柳・田中・沖・磯部・松寺の八カ村となり、河北郡三番組小学校の主力となる。明治三十三年に中口村立勉致尋常小学校と改称。大正三年大改築を行い、その規模は校地六四七坪、学級数五、児童数二一〇となった。
 昭和十一年四月金沢市に編入され、金沢市立勉致小学校と改称。昭和十四年十月、浅野町尋常小学校に合併された。昭和十六年浅野町国民学校、同二十二年浅野町小学校と改称、通学区域は田中・高柳・乙丸・浅野本・梅沢・浅野新・中島・下浅野・浅野・水車となり、昭和五十一年東大通りの車による騒音公害対策により改築され、現校舎となった。

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